上村雅之さん 大いに語る。 ファミリーコンピュータ インタビュー(前編)(2013年10月号より)

今回の記事では生誕30周年のときにニンテンドードリームで行われたインタビューを再掲載し
ます。ファミコンの生みの親である上村雅之さんが語る、当時の開発秘話。聞き手はこちらも一世風靡したゲーム雑誌「ファミマガ」こと、ファミリーコンピュータマガジン初代編集長である山森尚さん。じっくりお楽しみください。

後編はこちら

・記事は修正している箇所もありますが、基本は掲載時と同じものになります。


上村雅之さん プロフィール
1943年、東京都生まれ。千葉工業大学を卒業後、早川電機(現シャープ)に入社。1971年に任天堂に移籍し、ファミコンおよびスーパーファミコンの開発責任者を務める。2004年に任天堂の開発アドバイザーになると同時に立命館大学の特任教授に就任。現在は同大学の客員教授およびゲーム研究センター長を務める。


1986
年に放送された番組

山森 ファミコン30周年おめでとうございます。

上村 ありがとうございます。

山森 最近はどのような生活サイクルなんですか?

上村 週の半分は任天堂に行って、残りは立命館大学に行くような生活です。山森さんは?

山森 あいかわらずゲーム雑誌をつくったり攻略本をつくったりしています。ですから28年間、まったく同じことを続けているという(笑)。ところで、僕が初めて上村さんにお会いしたのは、大ヒットした『スーパーマリオブラザーズ』(以下『スーパーマリオ』)が発売された翌年の、1986年と記憶しているんですが…。

上村 そうでしたね。でも、山森さんの僕の印象で強く残っているのは、1986年の2月7日に放送されたNHKの「首都圏」(注01)という番組です。ファミコン特集があって、そのときに山森さんはコメントをしていましたでしょう?

山森 それ、まったく記憶にないです。まあ、あの当時は、けっこう取材を受けることが多くて…。

注01:「首都圏」=NHKが、平日の夕方に関東ローカルで放送していた情報ニュース番組。当時のNHKは、特定の企業のPRになり得る報道を避ける傾向にあり、番組の中で任天堂は「京都のおもちゃメーカー」と紹介されていた。

上村 でしょうね。あの番組は関東だけで放送されていましたので、放送後にビデオを送ってもらって見たんです。するといっぱい映ってるんですよ、僕が(笑)。

山森 (笑)

上村 で、宮本(茂)くんも山内前社長も映っていて、番組の中盤くらいに山森さんが出てきて。そのときの発言がすごく貴重だなぁと思ったのを強く覚えているんです。

山森 どんなことを言ってました? 僕(笑)。

上村 裏ワザ探しが子どもたちの間でブームになっているという話のなかで、編集部には毎月35万通もの読者はがきと、テープ応答のテレフォンサービスに4万件もの電話がかかってくるという…。

山森 ああ、あの頃は本当にすごかったです。

上村 それで山森さんは、ファミリーコンピュータが遊びの道具であるというよりも、あのゲーム機をとりまく情報を知っているか、知らないかということが、子どもたちにとってはとても大切なことになっていて、それこそゲームで競うというよりも、ゲームの周辺の情報集めで、最先端をいってるかどうかに関心があるんだと、そんな話をされていました。

山森 けっこうちゃんとしたことを言ってたんですね(笑)。

上村 けっこうどころか、極めて正しいことをおっしゃっていたと思いますよ。そもそも当時の僕たちは、ユーザーの声が届かないところで、ゲーム機をつくったりしていたんです。

山森 あの頃はインターネットもありませんでしたしね。

上村 だから、ユーザーがどんなふうに遊んでいるのか、僕たちには何も見えていなかったんですね。そんなときに山森さんのコメントを聞いて、「ああ、たしかにそうやわ」と思ったことをよく覚えています。

前社長から自宅に電話

山森 上村さんは先日、「ファミコンとその時代」(注02)という本を出されました。今回は、その内容と一部かぶるところもあるかもしれませんが、よろしくお願いいたします。

上村 こちらこそよろしくお願いいたします。

注02:「ファミコンとその時代」=2013年6月にNTT出版から刊行されたファミコン史。著者は上村さんのほか、立命館大学教授の細井浩一さんと中村彰憲さん。


山森
 そもそもファミコンの開発は、山内前社長から上村さんに電話がかかってきたことからはじまったんですよね? それも会社ではなくて、自宅に。

上村 そうです。1981年の11月のある日、夕方のことでしたけど、あの当時は今と比べて規模が小さな会社でしたし、山内前社長は朝、僕が家を出た後に電話をかけてきて、うちの息子と話したこともあったんです。気さくな感じで「お父ちゃん、いるか?」みたいに(笑)。

山森 あははは(笑)。それで、ファミコンの話を切り出されたときは、けっこう長い電話だったんですか?

上村 話は簡単です。「上村くん、ゲーム&ウオッチ(注03)の次を考えんとアカンわ」と、こんな感じでした。

注03:ゲーム&ウオッチ=日本では1980年の『ボール』から1985年の『ブラックジャック』まで、多数のタイトルが発売された携帯型液晶ゲーム機。1982年発売の『ドンキーコング』には初めて十字ボタンが採用された。


山森
 ゲーム&ウオッチは1980年に発売されて、その電話がかかってきた当時も、ブームのまっただ中、という感じでしたよね?

上村 そうなんです。たぶんほかのメーカーが携帯型液晶ゲームを出しはじめていましたし、そういう情報を察知していたんでしょう。

山森 それに、明らかに偽物のゲーム&ウオッチも出ていましたしね。

上村 そうです。だから「もうアカン」と思ったんでしょう。で、そのときに「テレビゲームを準備してくれ」と言われたんです。

山森 そこからすぐにファミコンの開発に入ったんですか?

上村 いえ、そのような電話がかかってきても、翌朝になってから「あれ、やめた」というパターンも少なくなかったんです。

山森 1日たって、気が変わるんですね(笑)。

上村 ところがそのときは、3、4日たってから、また電話がかかってきて「3年間、保つようにしろ」と言われたんです。そこで「3年って、そんなもん、社長、無理ですよ」と言ったんですけど、「いや、ゲーム&ウオッチの状態を見ていたら、3年や。3年は保たせてくれなアカン」と。で、「キミのところはヒマやと思うからよろしく頼む」と。

山森 当時の上村さんはヒマだったんですか?

上村 ヒマどころか、仕事がなかったですから(笑)。

山森 仕事がないって、それはどうして…?

上村 それを説明するには、ちょっと数年さかのぼらないといけませんが…。

山森 お願いします。


「レーダースコープ」の失敗

山森 そもそも任天堂の家庭用テレビゲームのはじまりは、カラーテレビゲームシリーズ(注04)だったんですよね?

注04:カラーテレビゲームシリーズ=三菱電機と共同で開発した家庭用テレビゲーム機。テニスや卓球のようにシンプルなゲームが収録されていた。ちなみに「15」と「6」は遊べるゲームの数を表している。


上村
 はい。1977年に発売された「カラーテレビゲーム6」と「カラーテレビゲーム15」です。アメリカでもそのような家庭用テレビゲームが流行っていたということもあって、日本でもウケるやろうと。それを僕の部署でつくって発売したんですが、その翌年にアーケードで『スペースインベーダー』(以下『インベーダー』)(注05)が出てきて、大ブームになったために、お客さんはそっちのほうに向いてしまったわけです。

注05:『スペースインベーダー』=タイトーから発売された業務用のシューティングゲーム。100円玉が不足するほどの大ブームになり、テーブル型の筐体がずらりと並べられた喫茶店は「インベーダー喫茶」と呼ばれたりした。

山森 それこそ当時は、日本人のほとんどが『インベーダー』にハマっていましたからね。

上村 そうです。それでそのあとも、宮本くんが本体をデザインした「ブロック崩し」(注06)とかを出すわけですが、そんなにたくさん売れるわけでもなく、しかもトラブルがけっこう発生していたんです。色が出ないとか、テレビが映らなくなったとか、隣の家のテレビに映ったりとかね(笑)。

山森 はいはい(笑)。

注06:「ブロック崩し」=1979年に発売された、ブロック崩し専用ゲーム機。価格は1万3500円。

上村 そんななか、横井軍平さん(注07)の開発一部でつくったゲーム&ウオッチが、1980年に発売されるんです。発売初年度の売れ行きはそれほどよくなかったんですけど、翌年からわーっと売れるようになって、社内の空気も「任天堂の商品の本命はこれや」という雰囲気に染まって、「家庭用ゲーム機はやめておこう」という話になったんです。

注07:横井軍平さん=任天堂在職中に、開発部、開発一部の部長をつとめ、ゲーム&ウオッチやゲームボーイなどのゲーム機のほか、ファミコンロボットや『Dr.マリオ』などを世に送り出した開発者。1996年に退社し、株式会社コトを設立する。1997年に交通事故で他界。

山森 家庭用ゲーム機を出すよりも、携帯ゲーム機を中心に売っていこうと。

上村 そこで、僕の開発二部がヒマになりまして、アーケードゲームをつくることにしたんです。そしたら、アーケードの仕事っておもしろかったんですね。

山森 どんなところがですか?

上村 超ハイテクノロジーの部品を扱えて、しかもコストの壁がないんです。

山森 1台100万円を超えるものもありますからね。

上村 そうです。それにちょうどその頃、画像処理の技術が進歩してきて、高速なIC(注08)がいっぱいできてきたんです。

注08:IC=集積回路。トランジスタなどの電子部品を基板の上に集積し、 金属で配線した電子回路の総称。集積度が1000個~10万個程度のものをLSIと呼ぶ。


山森
 はい。

上村 それに、自分自身がハマってしまったというか、テクノロジーのおもしろさに酔いしれてしまったんですね。で、ICの値段は問わないから、画像の処理スピードをあげようということでつくったのが『レーダースコープ』(注09)だったんです。

注09:『レーダースコープ』=1981年に発売された業務用シューティングゲーム。池上通信機と共同で開発。写真はチラシ。※提供:山崎功


山森
 『インベーダー』のようなシューティングゲームですね。

上村 あのゲームのポイントは、高速に動く小さな塊を、画面いっぱいにたくさん表示できたことなんです。

山森 『ギャラクシアン』(注10)もそうですね。

注10:『ギャラクシアン』=1979年にナムコ(現バンダイナムコエンターテインメント)が発売した業務用シューティングゲーム。ファミコン版は1984年9月に発売。


上村
 そうです。『ギャラクシアン』を超えるようなものをつくろうということで、『レーダースコープ』をつくったんですけど、これが国内ではさっぱりだったんです。しかも、アメリカに輸出してみたら、コインの収入がまったくあがらなかったんです。そもそもアーケードでコインの収入があがらなかったらどうしようもないですよね。

山森 ええ。

上村 それで大量に基板が残っちゃったんです。

山森 あの仕事がなくなったのは『レーダースコープ』が原因だったんですか?

上村 そうです。そこで選手交代。横井さんの開発一部に「ゲーム&ウオッチの手法を使って、何かできないか」という話になったんです。

山森 『レーダースコープ』で余った基板を使って、新しいゲームを横井さんのチームでつくることになったわけですね。

上村 はい。それで生まれたのが『ドンキーコング』(注11)だったんです。

注11:『ドンキーコング』=1981年にアーケード版が登場したアクションゲーム。ファミコン版は本体と同時に発売された。いまや世界的なゲームキャラクターになった「マリオ」は、このゲームでデビューした。

 5人で開発がスタート

山森 そのような経緯で、宮本さんのデビュー作とも言える『ドンキーコング』が生まれたと。上村さんが初めて触ったとき、どんな印象を受けましたか?

上村 『レーダースコープ』で失敗してヒマでしたから、遊んでみると「これはおもしろい」と(笑)。

山森 ええ(笑)。

上村 で、『インベーダー』のときもそうだったんですけど、社内の全員が『ドンキーコング』に染まってしまって、管理職からは「仕事にならん」とクレームがくるし、社内でも「ゲームをやらしたらアカン」というお触れが出たくらいなんです。

山森 へえ~(笑)。

上村 ただ『レーダースコープ』がアカンかったのに、『ドンキーコング』がブレイクしたというのは、自分としてはやっぱりしゃくなんです(笑)。

山森 ですよね(笑)。

上村 でも、そのときに思ったのは、ゲームというのはやっぱり中身が大事だと。ただ、それは間違いないんですが、テクノロジーがある線を越えていないと、それも実現できないということなんです。

山森 ゲームのおもしろいアイデアと、高度なテクノロジーは車の両輪のような関係だということですね。

上村 そうなんです。でも『レーダースコープ』の失敗で、自分の居場所がなくなり、ヒマな時間を過ごしているときに、前社長から「次はテレビゲームや」という電話がかかってきたんです。

山森 「価格は1万円以下に」という条件は、そのときに聞かされたんですか?

上村 それは昔からそうです。「おもちゃは1万円以下じゃないと売れない」と。だから、言われるまでもなく、僕らは9800円の価格を想定していました。で、それ以外の条件はゼロだったんです。

山森 何人くらいで開発がスタートしたんですか?

上村 当時の開発二部は、自分も入れて5人くらいです。部下の多くはゲーム&ウオッチのチームの開発一部に応援にいきました。そこで、その5人で手分けして、すでに発売されているゲーム機の分析からはじめることにしました。

山森 で、CPU(注12)などのLSIの設計・製造は、シャープさん以外で、という条件を課せられるんですよね?

上村 僕はシャープをいちばんよく知ってるわけですけど(笑)。

山森 上村さんはシャープのご出身ですからね(笑)。でも、その頼みのシャープは、ゲーム&ウオッチの仕事で忙しいので、じゃまをしてはいけない、という話でしたよね。

上村 そうですね。そこで、日本を代表する半導体メーカーを、片っ端から訪ねてみたんですけど、とてもていねいな断り方をされまして、当時、半導体工場をつくったばかりのリコーさんにお願いすることにしました。そのとき幸運やったのが、その開発部隊に元三菱電機のスタッフで、1977年のカラーテレビゲームシリーズの開発に関わった経験のある人がいたんです。

注12:CPU=Central Processing Unitの略。日本語では中央演算処理装置などと訳される。コンピュータなどで中心的な役割を果たすIC。


プログラムできる日本人が少ない
CPU

山森 そのリコーさんから提案されたCPUは、「6502」(注13)というものでしたね。

上村 はい。そもそも僕らとしては、「Z80」(注14)という、当時よく使われていてプログラムしやすいCPUを採用するのが当然なんです。ところが、その6502については、知っている日本人は極めてまれだったんです。

注13:「6502」=アメリカのモステクノロジー社が開発した8ビットCPU。マッキントッシュのAppleⅡに搭載されて話題になった。なおファミコンに採用されたのは6502の互換CPU。
注14:「Z80」=アメリカのザイログ社が開発した8ビットCPU。当時、日本で人気だったPC-8001(1979年発売)やPC-6001(1981年発売)などのパソコンのCPUは、すべてZ80系だった。

山森 でも、そのようにあまり知られていないCPUを採用すれば、プログラミングしにくいという意味で他社の参入障壁になって、前社長の「3年間、保つようにしろ」という条件にはピッタリですよね。

上村 そうですね。でも、そういった他社に真似されにくくなるという側面は後から見て言える、まあ偶然みたいなものです。共同開発のリコーさんが6502のライセンスを得ていたこと、Z80は権利関係の処理に時間がかかりそうなこと、そしてコストの面から採用したんですが、当時は自分たちにとっても障壁になったんです。社内で、最初から誰もがゲームをつくることができないというハンディを背負い込むことになりました。

山森 すると、その6502の勉強からまずはじめたわけですか?

上村 そんな話もしてたんですけど、時間がありませんでした。でも、ゲーム制作のための開発ツールをつくらないといけませんから、6502に詳しい人がいないかと思って、試しに近くの大学にアルバイトの求人広告のビラを貼ってみたんです。そうしたら、なんと応募が1人いたんです。

山森 それで、即採用?

上村 もちろんです。これはラッキーでした。その現役大学生に手伝ってもらう一方で、ゲーム&ウオッチのブームが下火になってきたので、開発一部に助っ人に行っていた元部下たちを、「ぼちぼち返してもらえませんか?」と頼んで、何人か戻してもらったんです。そのうちのひとりに『ドンキーコング』の移植を頼んでみると、「部長、これはあきまへんわ」と。

山森 移植するのが難しいと。

上村 移植するのに、ものすごく手数がかかるので、いちからプログラムし直したほうが早いというんです。そこで彼は、『ドンキーコング』を遊びながら、タイムウォッチでアイテムなどが出てくるタイムを計りつつ、プログラムをはじめたんです。

山森 いわゆる“目コピー”したわけですね。

上村 そうです。するとしばらくして、「6502というのはなかなか扱いが難しいCPUやと思ったんですけど、あのPPU(注15)と相性がよろしいね」と。

山森 PPUというのは、画像処理を専門に行うICのことですね。

注15:PPU=Picture Processing Unitの略。画像処理を専門に行うプロセッサ。

上村 採用したPPUはとても高度な機能を持っていたんです。シンプルでわかりやすいプログラムでも、きちっと絵が出てくるんです。それを彼が発見して、「これやったら行けるんちゃうか」という手ごたえを感じることができました。だから、ファミコンというゲーム機をつくるにあたっては、もともと高度な設計思想があって、それをめざしてつくったように、言おうと思えば言えるんですけど…(笑)。

山森 あははは(笑)。

上村 じつはそうじゃないんです。そもそも最初からきちっと設計したものって、失敗することも多いんです。そうではなく、めちゃくちゃに見えるかもしれないけど、個々にとても優れたものを組み合わせることで、とんでもないことが起こったりするわけですね。だから、のちに他社のプログラマーさんも含めて「ファミコンが開発者をも魅了した」と言われるようになるのは、そういう未知の可能性をファミコンに感じたからなんだと思います。

山森 奥の深い機械になったんですね、結果的に。

上村 そう。結果的にそうなったんです。

後編へ続きます


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