マリオの生みの親・宮本茂氏に文化勲章授与。50年のゲーム作りを語る[記者会見]

マリオの生みの親で知られる宮本茂氏が、文化勲章の受章候補者に内定しました。
ゲームおよびインタラクティブメディアに対する思いが語られた、会見取材のようすをお届けします。

令和8年度文化勲章の受章候補者に内定

任天堂株式会社の取締役フェロー・宮本茂氏が、令和8年度文化勲章の受章候補者に内定したと発表されました。
それを受け、任天堂本社大会議室にて会見が開かれ、宮本氏が報道陣の質問に回答していきました。その様子をお届けします。

プロフィール

任天堂株式会社 代表取締役フェロー
宮本 茂(みやもと しげる)

1952年11月16日生 京都府園部町(現、南丹市)出身
1977年に金沢美術工芸大学 工業デザイン専攻を卒業し、任天堂へ入社。情報開発本部長などを経て、2015 年に現在の代表取締役フェローに就任。
1981 年に世界で初めてデザイナーが手がけたゲームとして、業務用ゲーム機『ドンキーコング』を開発。ゲームデザイナーを名乗り、『スーパーマリオブラザーズ』『ゼルダの伝説』など、今日のビデオゲーム隆盛の礎となる任天堂を代表するソフトのほか、『星のカービィ』や『ポケットモンスター』をプロデュースし、近年は『Wii Fit』や『Wii Sports』『ピクミン』を制作。現在はテーマパークや映像など、世界中の人が任天堂のキャラクターや世界に触れる機会の創出に取り組んでいる。

【主要経歴】
1977年4月 任天堂株式会社 入社
2000年6月 取締役情報開発本部長就任
2002年5月 代表取締役専務就任
2015年9月 代表取締役フェロー就任(現在)

【個人賞(一部)】
1998年(米) The First Annual Interactive Achievement Awards『THE HALL OF FAME AWARD』
2006年(仏)芸術文化勲章『シュヴァリエ章』
2007年(米) The 7th Annual Game Developers Choice Awards『Lifetime Achievement』
2007年(日) 第12回 AMD Award『功労賞』
2008年(日)日本ゲーム大賞 2008『経済産業大臣賞』
2010年(日)平成21 年度[第13 回]文化庁メディア芸術祭『功労賞』
2010年(英) GAME British Academy Video Games Awards『Academy Fellowship』
2011年(日)平成 22 年度芸術選奨 文部科学大臣賞 メディアアート部門
2012年(西)アストゥリアス皇太子賞『コミュニケーションおよびヒューマニズム部門』
2019年(日)令和元年度文化功労者

文化勲章とは

科学技術や芸術など、日本の文化の発展や向上にめざましい功績を挙げた人に授与される日本の勲章。毎年おおむね5人程度(近年は7〜8人前後)が受章し、授与式は毎年11月3日(文化の日)に行われ、皇居で天皇陛下から直接親授される。

【記者会見】黎明期から50年、コツコツ続けたものづくり

会見は、テレビおよび一般、地域新聞、ゲームメディア等の幅広い記者が囲み、ご挨拶ののち約1時間、記者からの挙手制の質問に回答するかたちで行われました。止まずに繰り広げられる質問に、言葉を選びながら丁寧に回答する宮本さん。
勲章授与に対する特別な思いというよりも、ゲームづくりへの真摯な取り組みへの思いと、楽しんで50年間続けてきたことと、その結果、ゲームが文化として当たり前になっていったことへの考えが語られました。

本サイトでは、ほぼそのままに全文を掲載します。

宮本:
こんにちは。今日は京都までお越しいただいてありがとうございます。
こういうことになりまして、ものすごく照れくさい気持ちでいるんですけれども(笑)、名誉ある章に選んでいただいたことを本当に光栄に思っています。

いつもお話しするんですけど、ゲームって一人で作っているものではないので、大勢の人たちと一緒にやってきたことが評価されたんだと思いますけども。ここのところゲームに限らず、ユニバーサルスタジオのテーマパークをやったり、映画を作ったり、いろんな他のジャンルの方ともたくさんの仕事をさせていただいてるので、皆さんと共に喜びを分かち合いたいと思っています。

「ゼルダの伝説」シリーズが40周年とか「マリオ」が何周年だとか、いろいろやっているなかで、実は僕自身は「ゲームを作り始めて45年」とかいうふうに紹介をしているんですけど、任天堂に入社したのが1977年、その後すぐにゲームが流行り始めてその仕事にかかわるようになったので、そうすると実は50年じゃないかと。数えやすいので、今日は「ゲームを作り始めて50年です」とお話ししようかなと思ってまして。
で、まあその50年前の、かたちがあるかないか分からないメディア(ゲーム)とかかわるようになって、ここまで一生懸命にそのかたちづくりをしてたんで、黎明期からいたからこそのメリットでこういう扱いを受けているんだと思って、とてもラッキーなことだと思います(笑)。

……しゃべりだすと、いつまでも適当にしゃべってしまうので、皆さんからの質問をお受けしながら話していきたいと思います。

インテラクティブなメディアを使って日常の時間を忘れさせるような装置

宮本:
今日はいろんなメディアの方がおられるので、どの程度踏み込んでいいのか、迷いつつお話しするんですけども。
今おっしゃっていただいたような社会のというより、任天堂って僕の子供の頃には任天堂の盤上ゲーム……「家庭盤」という商品がありまして、ダイヤモンドゲームとか、ロケットゲームとか。それをお正月になるとこうみんなで出してきて遊ぶ、と。百人一首もそうですね。で、一年間タンスの上に積んであって、またお正月になると出してくる。
そういう、任天堂と生活のかかわり方って良いなって、昔から思っていたんですね。

で、ビデオゲームを作るようになっても、リビングの中心にずっとゲーム機があって、そこでみんながくつろいだり、日々暮らしていると。こういうものになるのがまたとても任天堂らしいなと思って作ってきたので、それを進めていくうえで、やっぱりゲームを遊ぶ人たちのために作るというだけではなくて、常にそうじゃない人たちのためにも、ゲームに興味を持たれるものを作ろうと取り組んできました。

だから、“リビングにあってもおかしくないもの”をずっと作り続けていこうというふうに進めてきたんです。それはとてもよかったなと。他との差別化も図れたし、自分にも合ってるなと思っています。

それが社会とのつながりとかなんだかという感じではなくて。
自分が26歳ぐらいからゲームを作り始めて、自分もプレイヤーで、その頃まだ周りの同年代はそんなにゲームを遊ぶ人たちじゃなかったのが、だんだんとお父さんがゲームを遊んで育った世代になり、気がつくと自分がおじいさんになって、おじいさんもゲームを遊んだ世代になる。

親子3世代がゲームのことを知ってるっていうのがものすごく大きいなと。それが、社会とのかかわりが深くなったということかなと。それを文化としてみようじゃないかとおっしゃっていただくのは、とてもありがたいなと思っています。
だからこれからも、ゲームというか新しいメディアに興味のない方にも使ってもらえるものを、リビングの中心にいつまでもあるものを作り続けていけたらと思っているので、これからも頑張ります。

宮本:
難しいな……(笑)。
さっきもお話したように、一人でもたくさんの人に遊んでもらえるようなものにしようと。
ゲームキューブからWiiに移った時代がけっこう悩みの時代だったんですけども、ゲームを遊ぶ人もゲームとともにどんどん進化し、ゲーム機も高性能になり、プレイヤーもどんどんレベルが上がっていき、っていう時代がずっと積み重なっていくと、ふと立ち止まると、「ゲームをする人」と「ゲームしない人」って世の中に衝立が立てられてるなとちょっと感じた時期があるんですね。

そうじゃなくて、日常に溶け込んでいつでもゲームに触れてるのが理想じゃないかと思いましたし、そうすると今自分らがゲームをより面白くしようと思って作ってるコントローラーそのものが複雑で、初めて触る人にはもう近寄りがたいものになってるんじゃないかみたいなことから、WiiとかニンテンドーDSではすごいシンプルな形で置き換えようとしたんですね。

そういうことを何度か繰り返しているあいだに、さっき言ったとおり世代が3世代に渡ってきて、ゲームをするのは割と日常になって。これはスマートフォンとかモバイルが飛躍的に進んだことも大いに貢献していると思うんですけど。しかも、「ゲーム」って呼んではいるんですけど、ゲームを作ることだけに僕は集中してなくて、“インタラクティブ”というメディアが面白いなと思ってきたんですよ。

インタラクティブのメディアのなかで一番わかりやすいのがゲームなんです。
自分が何かをすると、相手が何かを返してくれる。そこで“試行錯誤を繰り返しているうちに、楽しい時間が経ってた”となれば理想かなと思って。

僕はもともと工業デザイナーなので、昔、デザインの「CAD」というソフトを使っていまして。CADとか3D CADとか、あれ最高のおもちゃやと思うんです。僕ちゃんと使いこなせてはいないんですけど(笑)。
コンピューターを使っていて、インタラクティブで、いろいろ試行錯誤しながら、気がついたらすごく時間が経っていた。僕の中ではこれも立派なゲームだと思っていまして。そういうものをもっと作っていけたらいいなってずっと目指してきたんですけど、やっぱり「それはゲームなのか?」っていう議論になるんですね。

だからゲームじゃなくても、“インテラクティブなメディアを使って日常の時間を忘れさせるような装置”であるということ、それからもうひとつは、快適に使えるかどうかをものすごく大事にしています。

たぶん世の中のいろんなコンピューター、インターフェースを設計してる人のなかで、ゲームぐらいそのインターフェースを真剣に作ってる人は実はいないと僕は思ってるんですね、ずっと。
ゲームを作りは、お客さんが分かりやすいか、思い通りに動かせるか、レスポンスはどうか、反応速度はどうか。どうしたら間違わないか、人間工学的にどう作っておけば間違わないか、っていうことを考えています。

皆さんふだんウェブで何か使っておられても、反応が悪かったり、「はい/いいえ」の質問があってほとんどの人が「はい」っていうのにデフォルトの位置が「いいえ」になっていてそこで間違うといった経験があると思います。
そういう細かいところに神経を使ったデザインができる人がゲームには必要で、だからうちは社内でもインターフェースデザイン部門っていうのを作るぐらい(笑)、そこを真剣に作っています。

そうすると、それを作っていた人たちは多分、ゲーム以外でもコンピューターのうえで仕事をしていたら、きっとそのノウハウはものすごく役に立つし、それが一番ゲームが進んでいると思っています。
今、モバイルでいろいろサービスがありますけど、いろんなサービスのなかでもとても使いやすいものを作っている。利益を一生懸命目指している、丁寧にお客さんがちゃんと使えるかどうかを目指して作っている会社としてのものづくりが、ちゃんとできていると思います。
トップダウンで、こういうものがあるべき・こういうものをつくれ、という指示によって出来上がったものって、だいたい使いづらいものです。

そういう意味では、ゲームぐらいお客さんにいちばん真剣に向き合ってきたものと同じぐらいいろんなコンピューターを使ったものの設計が出来上がっていけば、多分ゲームに限らずインタラクティブな世界っていうのは、まだまだ進化の可能性があるし、日本が作れるものが最高だと言えるチャンスがいっぱいあると思います。
僕、業界の人に「ゲーム業界を抜けても今やってきた仕事がいっぱい役に立つから」ってお願いをするんですけど、そういうことがこれからできていけば、何年後かにはゲームっていう評価じゃなくて、「コンピューターインタラクティブ」っていう文化としての評価にまでしていただけるようになったら、嬉しいなと思います。

魅力的なキャラクターと、丁寧に手掛けてきたインターフェースの強み

宮本:
映画を数年前から作るようになって、そのときにちょこちょこご説明はしてたんですけど、昔は僕は「映画は作らない」って強がっていたんです。それは、映画を作るためにお話を作ると、このキャラクターはこういう性格です、家族はこういう人がいます、といろんな設定をしていくんことになるんですね。
けど、僕らはゲームを作るためにキャラクターを作ってきたので、次にどんなゲームを作るか全くわからないのにいろんな設定をしてしまうと、不自由になると思いました。
なので、ゲームのために作ったキャラクターなので、ゲームでしか使いませんと言ってきたんですけど、こう長年やってくると、今、任天堂のファンとおっしゃってくださる皆さんがうちのキャラクターを愛してくださって、しかもマリオ、ゼルダ、カービィっていろんなキャラクターが作られてきましたし、ゲームを遊ばなくても、キャラクターが大好きっていうだけでも任天堂のファンになってもらえるなと思うようになったんですね。
それで、作るなら自分たちで作ろうということで、映画の制作を始めました。

それ以外にも、テーマパークを始めたり、ゲームだけに限らずゲームから生まれてきた任天堂のキャラクターをよりたくさんの人に見てもらえるような場をつくろうとしていますので、いろんなお付き合いをいただけるなと思います。

いま「ピクミン」とか頑張ってまして。『ピクミンブルーム』は任天堂も一緒に開発しているんですけど、提供しているのがええと、「Niantic」さんから「Scopely Explore」さんに名前が変わったんですけど。一緒にずっとやってまして。ああいうモバイルでも任天堂のキャラクターっていろいろ広がってくる可能性があるので、楽しみにしてください。

Pikmin Bloom(配信元:Scopely Explore)

宮本:
あまり具体的にイメージがあるわけではないですけども、コツコツ自分のやれることを続けていくだけかなとは思ってます。さっき言ったように、やっぱりゲームの貢献できることって、ユーザーインターフェース、使う人に一番真摯に対応しているメディアじゃないかなと思うんです。

こちらから何かを与える、お客さんに提供するというよりは、お客さんがそこでインタラクティブに使ううえで何か生まれてくるっていう。で、それが楽しい。そうすると、日用品もそうじゃないですか。使ってるうちに楽しくなってくる。
で、お客さんとどう接するかというところを丁寧にやってきたのが、日本のゲーム産業の強みだと思っています。

どの産業にどうかというより、デザイナー、システムエンジニア、インターフェースのデザイナー、そういうひとりひとりが、丁寧にできる人が育ってきたと思うんですね。なので、そういう人をちょっとでも増やせるようにしていくぐらいかなと思います。

もうひとつは、人と同じことをやるとなんでも競争になるので、人と違うことをやるんでってことは常に言ってるんですけども、そういう独自の姿勢で、使う人にちゃんと寄り添って、真剣にものづくりをするという人が一人でも育っていけばよいかなと思います。私も引き続きそれをやっていこうと思います。

京都でコツコツ続けてきたものづくり

宮本:
私、京都御所からは40km離れている南丹市の園部町というところで生まれたんですけども。田舎者で、京都にも「出てくる」って言ういうくらい、京都のなかでも田舎なんです(笑)。で、大学は金沢に行き、デザインの仕事をしていますから、工業デザイナーならイタリアに行かなだめだろうとか、最新のデザインはニューヨークで覚えろとか、いろんなことを言われながらも、京都に出社して、京都でコツコツとものを作ってたんですね。

30歳過ぎたあたり、最先端の街にいないとデザイナーはもう枯れていく、みたいなことを言われたりする年齢のなかでも、あまり気にせずにずっとゲーム作りをしていました。日本よりも海外の売上の方がずっと多いということに気がついてはいたんですが、40歳に近づくと作ったものが妙にグローバルに評価されて。どうしてそういうものが作れるのかということを人に聞かれたり、自分で考えるようになりました。そのときに、「ああ、京都にいてよかったな」と。

いろんな意味で、何かと競争するんじゃなくて、自分たちの道具を持って、その土地でじっくりと物をつくる。
自分が作ってる物を相手にしているのは“人”なので、どの国の人かも都会の人かも関係なくて、人に対して何かを作って、そこで広がっていく何かをずっとコツコツと作り続ける。
ローカルにいて、一番ローカルなのは自分自身ですから、その超ローカルなところにずっと据わっていて、いろんな仕事をコツコツやっていくということができたことは、この京都というところがそんなに劣等感を感じずにいられました。「まあ、京都ですから」っていう顔でいける(笑)、それがラッキーやったと思うんですね。

園部もそうで。園部の自然のなかで自分が育ったことは、自分が作るいろんな判断をするなかで、過去の体験というのは全部そこに反映してきますから。子供の頃にのびのびと自然の中で育ったことが、自然にこう体現できていると、それが多分世界中の人に通じてるんだって思います。
国が違っても、やっぱり子供が物理的に物の刺激を受けたり考えたりするのって一緒なはずなんで、それがそのまま通じているということを感じた時に、ああ、田舎で育ってよかったなとか、ああ京都にずっといてよかったなって、歳とともに思うようになりました。
だから、園部の自然の何々をもとにこのゲームを作りましたという言い方もするんですけど、そういうことじゃなくて、やっぱり体に染みついたもの、山に登って滑って降りたとか、川に入って魚を手づかみするとか、溺れかけたとか。いろんな体に染みついたものが、自分のものづくりの原点になっているので、そういう意味では、園部に育ててもらいました。という言い方をしてます(笑)。

宮本:
もう、日々の仕事の中でやり取りしていくことしかないので、コツコツとやってます。
ただまあ、任天堂もーーちょっと数字間違ってたからごめんなさいね、開発者だけでも3000人や4000人、全部入れると世界中で1万人ぐらいの人の規模になってきたので、なかなかその原点にあった「独創」とかいう精神を全部に行き渡すようなことが難しくなってきてるんですね。
だから、次のものを作るときに、作る過程で独創って何なのかということを議論したり、今もまた新しい人ーーいや僕が新しい人と思っていた人も結構年寄りになってきたので(笑)、もうちょっと中堅が集まって、そういうことを議論する場を作ろうとか、今コツコツとやっています。頑張ります。

道具の進化の先にある、“作る”とは何か

宮本:
……大きな質問になるので、そうですね。
僕らの時代にコンピューターが出てきましたが、それまではタイプライターで文字を打っています。そのあとワードプロセッサーが出てきて……というふうに、どんどん道具は進化しました。

例えばデザイナーって、「レタリング」っていう文字をきれいに描く、ポスターの文字をきれいに書くことを学校で習うんですけど、そういうことができると、それだけでもうデザイナーって呼べたんですね。ほかにも、海外で流行ってるタイプ(文字)のデザインをなんとなく日本語にしてレイアウトすると、それをデザイナーと呼ぶとか。

ところが、コンピューターがどんどん進化して、ワープロソフトが進化して、文章もどこかからコピーしてくれるような、絵もどこかから持ってきてくれる、文字もきれいに書いてくれる。そういう技術、テクニックの部分がどんどん進化すると、そこで初めてレイアウトのセンスであるとか、そのひと個人のデザイン道場(鍛錬の成果)みたいなことが、初めて表に出てくるんです。

だから、ご主人がデザイナーで奥さんが家事をしてても、ご主人よりもデザイン能力は奥さんの方が上かもしれない。僕も(当てはまっているか)心配になることがあるんですけど(笑)、そういうことがどんどん道具で変わると。

まさにAIってそれで、僕らはいつも「ものを作る」っていうことと「作業する」ということを分けてて。
何かを作ろうと思うとまず大きな構成をしますよね。で、何かに向かってレイアウトしていく。で、そこから先は「作業」なんですよね。空いてる穴を埋めるとか、きれいに仕上げるとか。

これ厄介なことで、作業って楽しいんですよね。作るということの満足感ってあるじゃないですか。ライターさんなら書くこと自体とかね。
けど怖いのは、作業に満足してしまって、いいものができたって勘違いしてくる。自分はこれが怖いんですよ。
だから、そういう意味ではAIがいろんな作業をしてくれるようになればなるほど、本当に「作る」ということは何なのかということを、みんなが真摯に考える機会になって、大いに良いなと感じています。

過去のデザインのなかにも、コピーで出てきたものもあったでしょうけど、それはやっぱりずっとは残らないですよね。やっぱり、(ずっと残るデザインに)何があるかというと、個人が何かをデザインしようと、意図を持ってやっている。で、その作業をコンピューターに手伝ってもらってるっていう構造になるので、これはどこまで進化しても、ーーまあ、そこのすべてをAIがやってくれるようになるかもわかんないですけど(笑)、今はまだまだ我々がやれることは残ってるなと思います。

宮本:
ニンテンドーDSを作っている時に、任天堂のハードってすごいなと自分で思ったんです。あれだけの機能のものをあの値段で提供できるんです。
それで一番に思ったのが、「これを学校の教材にするといい」というもので。“学校の授業に使う”というテーマで『ニンテンドーDS教室』になりました。先生がPCを持ってて、それにつながっているDSが各生徒の手元にあって、先生はそれぞれの子供が今答えをどう書いているかとか全部見られる、直接質問もできると。

それから例えば、美大の卒業展みたいなことをやるときに、お客さんにDSを持ってもらって、その作品の前に行けば自動的に音声ガイドと画像で作品の説明をしてくれるっていう仕組みを作りました。ブラウザ上で設計できるシステムを作って、提供する。
それがどんどん進化して、『ニンテンドー3DSガイド ルーヴル美術館』のガイドシステムになったんですけど。

(参考リンク)
▶︎ 社長が訊く『自分で作る ニンテンドーDS ガイド』より“DSのパブリックスペース利用”構想
▶︎ 社長が訊く『ニンテンドー3DSガイド ルーヴル美術館』

そういうことをやってる頃から、やっぱりゲーム機とは言ってるけど、コンピューターとしては世界で一番安いコンピューターじゃないかと思うようになって、DSでいろんなことをやりたくて、いっぱい試してたんです。だからその頃には、半分はゲームを作ってるけど、半分はこれはゲームと呼んでいいのかっていうものを作り始めたんですね。

で、それがやっぱりスマートフォンがずっと進化したことで、一気に進む。これは僕らにとっては悔しいことなんですけど、世の中全体にとっては、メディアの進化にとってものすごく大きかったなと思うんです。そうなったことで、「インタラクティブにコンピューターを使っているということ」を「ゲーム」と定義したら、もう今ほとんどのものがゲームじゃないか、と思いますし(笑)。(大枠としての)ゲームのなかの、目的のためだけに遊んでいるものをひとつのゲームと呼ぶっていうことでも、別にいいでしょうし。だから、そういうものが本当に境界線がなくなってきたと思います。

今はツールの発展でNintendo Switchを含めた高性能なゲームを、アマチュアレベルの人でも作れるようになってきました。
人が作ったものを1時間楽しめたら、それがどんな楽しみ方であっても「それはゲームだ」って呼べるようになると、いろんな遊びが生まれてきますよね。それが今、荒削りなりにいろんなものが広がっていってると思うんです。

さっきもありましたけど、ゲームデザイナーではなくてもゲームが作れる時代。「ゲーム」の定義を広くすれば、もうみんなゲームが作れる時代になってきたと思います。で、そういうボーダーがなくなっていくのが理想やなと思っていたので、今とてもいい時代になったなと思います。

今後について……は、分からないです。
今、けっこう映画作りに夢中になって、映画を作るプロの人たちとやってるわけですけども、やっぱり自分で作ったらどれぐらい作れるかっていうことを試しておきたい。それをやってるなかで、ひょっとしたらゲームのようなものをまた作ろうとするかもわからないです。
今のデジタルのメディアの進化で、いろんな仕事が大掛かりになってきた一方で、スピーディーにできるようになってきたところもあるので、意欲のあるあいだはいろんなことを試したいと思いますし、特に“独創”と言い続けているので、任天堂で普通にやってきたことじゃないことをやって社員も驚かそうかな、という訓練とも思ってます。

宮本:
僕はね、子供の頃から、自分が作ったものを誰かに見せて、おおって驚いてもらうのが楽しみやったんですね。だから、中学校の頃には漫画家になりたくって、その頃は漫画を描いて人に見せるっていうことをやっていました。

親が勝手に自分の部屋に入るので、勝手に入ると驚くようなお化け屋敷のような仕組みを作って、親がそれを怒るのが楽しいとか。
工業デザインをやるようになってからも、なんだか不思議なものがテーブルで動いてて、なんで動いてるのっていう、意味はよくわからないけどずっと動いてるんですよ、みたいなものを作りたかったんですよ。

ゲームを作り始めた頃、「あなたにとってライバルは?」だとかよく聞かれるじゃないですか。僕、「ルービック博士です」って言ってて。ルービックキューブって、工業デザインをやっている自分にとっては憧れの、傑作のデザインだと思うんですね。そういうものをやりたい、だから「最大のライバルであり目標はルービックキューブ」と。

そういうなかでゲームと出会ったことが、とても良かったし幸運でした。
ゲームセンターで、なぜお金を入れるかというと、射倖心じゃなくて、自分がやられたことに悔しいからお金を入れるんですね。そのビジネスに使われているのが、ゲームだった。それに出会ったのは自分にとっては幸運で、それをどんどん広げていくうちに、そこでお金をもらうんじゃなくて、「なぜもう一回やりたいと思うのか」っていうことに純粋に興味が移り、そこにじゃあ、ただ遊んでても面白くないけどそこの世界に自分が入ってるような感じになってきたらどうなるのかっていう、箱庭ゲームのようなものが生まれた。
箱庭を作ると、やっぱり箱庭の世界があったらお話があったほうが面白いので、周辺のお話を作り、けど僕たちは語り部じゃないので、お客さんと一緒に遊んでるうちにお客さんのなかにお話ができてくるっていう構造を作るにはどうしたらいいのかってことをどんどん考えるようになったり。

そもそも、ゲーム会社として任天堂に就職したんじゃなくて、おもちゃ会社として、何を出すか分からない不思議な会社として会社に就職したということがスタートですから。
自分が出したものをどう受け取ってもらえるかという仕事が続けられているので、とてもラッキーな出会いだったと思います。

宮本茂さんが今まで開発に携わってきたゲームの一部

遊び手にとっての触り心地が一番の関心

宮本:
まあ、今はまだいくつか仕事をしているので、引き続きその仕事を続けていくだけかなと。
ただ、この歳(現在73歳)になっていつできなくなるかわからないので、覚悟しながらやってますけど、まあ楽しく今やりたいことを進めようと思いますし、遊び手と同じように作り手も同じように遊びながら作っているので、それを続けられたら楽しいなと思います。

宮本:
(長い沈黙の後に)……そうやね……難しいやね……
やっぱり、作ったものを遊んでいる人を見ているのが一番の楽しみとしか言いようがないんですよね。
だから、「自分のメッセージを何か伝えたくて作った」とか「それがどんなふうに伝わったか」とか、そういうことはあまり思わないですね。こういうことをしたら楽しいと思うんじゃないかとか、こういうことをしたら興味を持ってもらえるんじゃないかということをひたすら作り続ける。それの触り心地っていうか。

映画でいえば、ひとつひとつのセリフ、ここでこのセリフが正しいのか・もっと短いほうがいいのかみたいなことも含めて、心地よく受け止められてるかということをずっとイメージして作っています。なので、それを実際に見ている人、使っている人たちが心地よく思ってくれていたら、それで満足ですよね。

そこから先の、それをその人がどんなふうに解釈して、どういうふうに語るかというのは、もう僕のAI(関心領域)じゃないと思っていて。その時間を楽しく過ごしてもらえるかを見ているので、そこで楽しそうにしてもらえてたら、満足です。

宮本:
さっきもお話ししたとおり、自分のペースでものを作れたことが良かったなということが京都の魅力であって、基本的にどこで作ったかは関係ないかなと思っているんです。だから、京都から輩出したとかどうとかいう気持ちはとくにないです、ごめんなさい。誰が作ってるかわからないものにはなりたくないな、と思うくらいで。

……ひと昔前、コンピューターがあり、家電があり、というなかで、ゲームは家電のカテゴリにありました。コンピューターはもうちょっと上位にあって。それが徐々に、ゲームがコンピューターの仕事と一緒に扱われるようになっていきました。コンピューターで動いていますから。

でもコンピューターとしていっしょになっても、IBMを中心にコンピューターの世界の人たちが上位にあって、ゲームは下位にいるっていう空気が長くあったんです。
ところが20年も経つと、コンピューターの世界にいる人たちもゲームを遊んで育っている世代に変わってくるんですね。2世代目になってくると。で、今3世代目になってきて、そういう人たちがコンピューター関係の幹部に名前をつらねているんです。そうすると、ゲームとコンピューターにどちらが上位か下位かという感覚は全くなくなった。みんなデジタルの世界で知ってる面白いやつ、仲間たちっていう感じになって、本当にそういう壁がなくなったんですよ。

デジタルを扱っている仲間が広がっていった感じで、本当にこれは地域性のないものなんですね。だから今、僕たちの作っているゲームもあまり地域性と関係ないので、京都から発信するとか、そういうのはあまり……いや全く思わないです。
どちらかというと、京都の人は京都でマイペースで、その“人”がいるから面白い。だから、僕は京都に(これからも)住んで、“京都の人”っていうのをちゃんと守れるようにしようかな、って思います。

自分が面白いと思う物を、仕組みから考える

宮本:
どれが「スーパーマリオ」にとってふさわしい話といえるか……、僕らはゲームシステムがどうかっていうことを考えますからね。

昔、『パックマン』というゲームがありました。迷路にある点々を全部食べていくゲーム。画面の中の何かを刈り取っていって、全部なくなったらOKです、と。これは誰が見てもわかりますよね。
『テトリス』というゲームがあって、上からパラパラ振ってくるのをはめていく。横に一列並んだら消えます。これも誰が見てもわかりますよね。

で、そのときに僕は『ドンキーコング』を作っていて。『ドンキーコング』ってちょっと難しいところがあって、「A地点からB地点まで行きます」っていうのが、誰が見ても分かる感じがしないんですよ。分かりにくいんです。


全部をクリアしたらきれいになりますとか、全部を満たしたらOKですとかないので、けっこう苦労して、ここからここへ行くんだよっていうことを分からすためにゴリラが逃げていって、女の子をさらって、それを自分が助けに行くっていうゲームにしました。

そんな頃に、画面がずうっとスクロールして、もっともっと遠くまで行けたらいいのになとずっと思っていました。当時の技術ではまだ、スクロールできなかったんです。

そのジャンプするマリオというキャラクターが延々と走っていけるゲームが作れたらいいなって思っていたのが、まず「スーパーマリオ」の下地になります。
そこに、キノコを食べて大きくなって1回やられても大丈夫っていう仕組みを入れるのはどうか、とか。いろいろ足していくうちに「スーパーマリオ」になっていったんですけど、そのときに、陸海空っていう言い方をして、人が走っていくんやから、地上も走るし、海も泳ぐし、空も飛ぶし、もうやりたいこと全部アクションでできたらどうか、ということを考えるようになっていきました。
きっとそれが発明だったんでしょうね。みんなやってみたかったんですよ。横にだーっと走りながら、空を飛んだり泳いだりっていうのを。

子供の頃、電車に乗ってるときにこう、窓に指を差して人が走ってるように見立てて、ジャンプして避けたり、川があって、あーっ落ちたーとか、そういうことをやりながら電車に乗ってたりするじゃないですか。『エキサイトバイク』がそういう遊びなんですけど(笑)。

そういう、みんなが持っている共通体験をここ(ゲーム)でやれる。やった結果、何となくキノコ王国っていう世界観みたいなものがそこに残る、っていうことに気がついたことですかね。『スーパーマリオブラザーズ』の誕生は。

『スーパーマリオブラザーズ』の一番大きな発明の裏話ですが、「スーパーマリオ」は、実は「クッパと戦わない」んです。

ふつうにお話を考えると、ずっと進んで最後にゴールにボスがいたら、戦わないとダメじゃないですか。でも戦うのを作るのは大変で。このままでは戦いが作れへんなと思ったときに、「ずっと右に走っていくゲームやから、一番右に行ったら勝ちでどうだ」と思ったんです。戦わずに上を飛び越したらいいやと。あとはクッパが落ちてくれる。

それに気がついたときはすごい嬉しかったですね。どうしようかとすごい悩んでたんですけど、これで解決するんじゃないかと思って。やってみたら、意外と面白かった。だから、実はマリオってクッパとは戦っていない。2作目、3作目作っていったら、もうちょっとクッパと戦おうかと、徐々に戦うようにもなっているんですけど(笑)。

宮本:
やっぱり一番大事にしてきたというのは、遊ぶ人も遊びながら頭を使って考えているということですね。インタラクティブの面白さというのは、使っている人が「次こうしたらどうなるかな」と思うことだと思うんです。
試してみた結果どういう答えが返ってくるかなというところで、どういう答えを返すかっていうところが、たぶん作家性。ネガティブな人もいるし、ポジティブな人もいる、意地悪な人もいれば、サービス精神旺盛な人もいる。そういうやり取りだと思うんです。

僕はそこをすごく大事にしていますし、そこがあの、すぐ意地悪になるので、あまり出さないように気をつけたり。それが、さっきも言った心地よいかどうか、っていう。
で、それを繰り返しているうちに、その人のなかに思い入れっていうのが出てきて、それが自由に広がっていったら、あとは好きなものを展開していけば、勝手に消化してもらえるみたいな環境を作れるのが理想かなと思っています。

若いクリエイターには、自分が何かのゲームの大ファンだとして、「こうしたらもっと面白くなる」っていうスタートはやめたほうがいい、ということはよく言います。それは一生懸命を作っても誰かが作ったものと同じものなんで、「自分がすごく面白かった」っていうところまでは自分が作らないとだめだ、と。
何かをベースに改良するよりも、大元の「こんなことがあったらどうだろう、こんなことをしてみたら面白いんじゃないか」ということを一生懸命作り上げていくほうがきっと楽しいですよ、そのほうが仕事のやりがいがありますよ、ということは言います。

新しいメディアとしてのゲームのこれから

宮本:
(長い沈黙)うーん……そうですね、難しいですね。
いまだに、「こんなことができたら楽しいかな」っていうところから考えるんです。
昔だったら、映画を作るとか、漫画を描くとか、小説を書くとかという選択肢があった。そこに、ゲームを作る、インタラクティブなシステムを作る、っていう選択肢が増えたということだと思うんですよね。

最近はよく、ゲーム機っていうものからメディアになってきた、というような言い方をしていて。で、メディアをやるなら映画も何でもひっくるめてメディアとして自分たちが扱ったらいいし、そのなかで混ざっていって新しいものが出てくるかもわからない。
今は映像を作っているので先祖返りにはなるんですけども、(発展させるだけではなくて)映像も使って作ってみようと思ったところもあるんですね。

文化になったっていうのは、当たり前になったっていうことなんでしょうね。
それだけ選択肢が増えたというのは、いいよなと思ってますよね。僕の若い頃にももっと選択肢が広かったらよかったのかなと思うし、そんなにあったら自分で選びきれへんかったかなとも思いますけど。楽しいことを探しているだけやったので。

またDSの頃の話に戻りますけど、みんながガラケーでメールを打ってる姿を電車で見て、それが一番楽しそうでしたもんね、見ていて。悔しいなと思って。ゲームで遊んでるよりメール打ってる方が楽しそうやと。ああいうものに常になりたいなと思っているんです。

表を歩いててもコンピューターでやるレベルのことがモバイルでできるようになってきて、どんな面白いができるとか、どんな便利になるっていうことに、今なってきたのかなと思います。

だから、ゲームって呼ばなくていいんじゃないですか、もう。ゲームはインタラクティブなので、そういうところの良さを生かしていけたらもっといいのになとは思うんですけど、いっぽうTikTokをずっと見ているようなのも人の性というか、営みなので。もっとうまくインタラクティブを挟んでいけたら、もっと面白くなっていくと思います。

宮本:
影響を受けたってなると、やっぱり山内(溥)さんと横井(軍平)さんですね。
横井さんは本当に何か目の前にあるものをどうしたら面白くなるのかなということを一生懸命考える方で、そこからすごく学びがあったと思います。
山内さんのことでは、「独創」っていうのを僕が積極的に言うようになったのは、たぶん山内さんの影響だと思いますし、「お前らけんか弱いんやから、けんかするよりは独自のことをやれ」みたいなことをおっしゃって。まさに今のブルーオーシャンだとかレッドオーシャンだとかいう話を、当時すでに自分で感じ取られていたんでしょうね。

任天堂以外でいうと、糸井重里さんの影響をけっこう受けていて。糸井教の信者じゃないか!って彼らに言われるんですけども(笑)。目の前にあるものをどう捉えてどう考えるかということに関して、ものすごくいろんな勉強させてもらいましたし、流行の最先端のポジションにいるような人が流行を追い求めるんじゃなくて、自分のことをコツコツとやっている姿を見聞きして、すごく学ばさせていただきました。

あと、任天堂の仕事のなかではないですけど、もともと漫画家を目指していたので、赤塚不二夫さんとか手塚治虫さんからは本当にいろんなことを学んだと思います。
それも自分が新しいメディアの仕事をするようになってからは、漫画というメディアを生み出して育ててきた人たちが、晩年それをどんなふうに変えていってるか、っていうことに目が向いて。やっぱり最初に作った人が変えないと、なかなか後から入った人が変えるのは勇気がいると思ったので、そういう意味では僕もゲームを作り始めた世代なので、積極的に僕らが変えていかないと後から入った人はなかなかやりにくいんじゃないかと思う学びはものすごくありました。

……もっと整理して話をできたらよかったと思うんですけど、お話ししたようなあたりに思うところがあるので、皆さんのほうでうまく構成していただけたらと思います。本日はありがとうございました。

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